ついにこの時がやって来たのだ、と永江は思った。
駅から己が住処である博麗荘に向け、ビール四杯の酩酊を楽しみながらふらふらと歩き出した頃から薄々と感じていた事だった。
飼い犬の遠吠えと、自動販売機の低い唸り声と、原動機付き自転車の不機嫌なエンジン音と、街頭に群がる虫の羽音と、そういう深夜の町並みにつきもののBGMに混じる、押し殺された不自然な足音と吐息。背中に突き刺さる視線。そして隠し様もない気配。
変質者である。
今、現在進行形で変質者に後をつけられている。
永江は乙女である。三十路前の干物女である。その人生において初めての経験であった。
会社の男どもに顧みられるどころか女性として見られているのか疑問を呈したくなる今日この頃、そんな自分をこの変質者はいっぱしの女として狙ってくるのか。
おお、変質者!何という物好き!
……これでようやく自分も同僚達の「昨日バスの中で痴漢に遭っちゃってぇー」というあの井戸端会議に参加できる資格を得られるのかと永江は胸を熱くする。
と、同時に永江の頭に浮かんでいたのは愛読している女性誌の先月号に載っていた赤裸々な告白記『私を付け狙う年下の男』のことであった。
もし今つけてきている変質者が好みのイケメンであったら――おお、ジーザス!
しかし永江は酔ってはいても現実的な女でもあった。実際的な問題として何処の馬の骨とも知れない男に尻を触られる羽目になるというのは勘弁願いたかった。
同僚と共に牛角でたっぷり食べたカルビのニンニク臭い吐息で深呼吸すると、誰か知り合いに連絡してみようと鞄からケータイを取り出した。
先程別れた会社の同僚達、友人、家族、アパートの管理人もしくはその住人達。
しかし酔った永江はエア彼氏に電話する事にした。架空の番号にダイヤルし「助けてアントニオ!変な人につけられてるの!」と棒読みに叫んだ。アントニオは永江の愛読しているハーレクイーン小説の主人公で、ガンで死んだイケメンだった。
しかし変質者はそれで逃げたりはしなかった。逆に走り出すと永江へ向かって駆けてきた。
永江は振り返り薄暗い街灯の黒い人影を見るや「ぎゃぁー!お助けェ」と大好物の時代劇に出てくる町娘めいた叫びを上げた。
時代劇中ではこの辺りでスポットライトの輝きと共に眠狂四郎が登場するのだが、やんぬるかな現実はそれほど甘くはなかった。
ああ、ごめんなさいアントニオ――。
――永江の胸に今は亡きエア彼氏への想いが去来した、まさにその時である。
パッと暗闇にライトが光って周囲がまばゆい光に包まれた。
「そこまでよ!!」
永江の目には、逆光の中で紅く鈍く輝くバイクと、その車体に備え付けられたサイドカー、そしてその側車の上で仁王立ちする人影が見えた。
――小柄だった。小娘だった。全身を包むのはフリルのついた白いドレススカートであり、マントを羽織っていた。だせぇ。
そのコスプレめいた衣装でチビ助は、とうっ!とその側車から飛び降り、ダッシュで変質者に向かって走り出した。腕を体の前で十字に組んで、うおぉぉぉぉ!不夜城レッドォォォォ!!と叫びながら体当たりを繰り出す。
なんだこれは、と永江は酔った頭で周りを見渡す。これはドッキリなのかしら。それとも何か朝の九時頃からやっている大きなお友達向けの番組の撮影か何かか。
「貴様がこの平和な幻想町で婦女子を夜な夜な付け狙う悪党か!今夜はこんなにも月が赤いから本気で殺すわよ!」
何事かとおんおんと吠え出した番犬のコーラスをBGMに、完全にマウントポジションを取ったチビ助が変質者に遠慮なく拳を叩き込む。
おお、ジーザス!
その様子を呆気に取られて眺めていると目の前にバイクが静かに寄ってきて、それにまたがるライダーが話しかけてきた。
「大丈夫かしら?」
その女は相棒がそうであるようになぜかコスプレめいた面妖な装束をしていた。メイドである。しかしその軟弱な属性とは正反対に、彼女自身の体、全身から発せられる雰囲気は剣呑極まりなく研ぎ過ぎたナイフのようだった。スマートな動作でポケットから銀の懐中時計を取り出すと時刻を確認し、さらりと当然のように言った。
「家はどこかしら?もう夜も遅いし家まで送るわよ」
「という夢を見ました」
場所は博麗荘の家主の四畳半であった。
永江は目を覚ますといつもの日曜日の習慣に従い、博麗荘の大家である博麗霊夢の部屋へと上がり込んだのだった。
大家の部屋は永江と同じ間取りの四畳半だったが不思議と居心地が良く、博麗荘の住人達は灯りに引き寄せられる羽虫の如く狭い部屋に大挙するのが常で、この日も大家の部屋は永江と不良大学生によって占拠された状態にあった。
「酔ってたのさ」
同じ博麗荘の住人である霧雨魔理沙がニヤニヤと笑った。
「さもなきゃテレビの見過ぎか、だな」
四畳半に相応しいこじんまりとしたテレビには、ニチアサ恒例のアニメ特撮番組のラッシュアワーが繰り広げられていた。
番組の中では、上司の無茶な命令を受けた下っ端の怪人は街で暗躍するも、正義レンジャーによってプロジェクトを妨害されて挙句、一対五という不利な戦いの果てに巨大メカによって粉砕される。どう考えてもあの怪人に落ち度はなかった。怪人の上司があんな無茶な命令をするから悪いのだ。酷いパワハラを見た、と永江は憤慨する。世の中はそう廻っている。クソゲー。
「どうせ永江さん、酔ってたんでしょう?」
長寿人気アニメ『ふたりは秘封倶楽部』が始まった辺りで大家は容赦なくテレビを消しながら言った。
「一体どこにボランティアで人助けする物好きな連中がいるっていうのよ。面倒くさいし、お金もかかるし、危ないし――もし本当にいたとしたら金持ちの道楽よ。たぶんね」
「はぁ。それだけお金があるなら働かないで一日中ゴロゴロしときますけどね、私なら」
永江はそう言って炬燵机の上に畳んだまま置かれていた新聞紙を広げた。三面には『変質者、御用』というタイトルと、その下に幻想町で近頃出没しているという若い女性を狙う犯罪者と、その男が荒縄でぐるぐる巻きにされて警察機関の建物の前に放置されていた顛末が掲載されていた。
「これで十件目ね」
喫茶紅魔館が間借りしている雑居ビル――身長は小学生のときに止まったゆえに140センチメートル。電車料金は子供料金以外使ったことがないと豪語する見た目は少女、御歳23歳のレミリア・スカーレット(彼氏居ない暦年齢)が管理しているこのビルの2Fは、暇を持て余した彼女の前線基地であった。
御歳21歳、喫茶店の店長を任された瞬間趣味へ全力疾走して23歳児と取っ組み合いの喧嘩を繰り広げた女傑、十六夜咲夜(源氏名)に紅茶を淹れさせつつ、幻想町の地図を広げた。
「“奴ら”はまだ動かないの?」
「命蓮寺の連中と、月光騎士団のこと?」
分厚いエロ本から目を離さずに、パチュリー・ノーレッジ110歳(自称)。ホントは彼氏居ない暦23年の八里知恵子(はちりちえこ)。文学部の院に通いながら、友人であるレミリアの壮大な暇つぶしに知恵を貸している脳内ピンクの女人であった。ちなみに「こころ」は先生攻めのK受けだと信じて疑わない。
「この幻想町は、我々七曜社と命蓮寺、そして月光騎士団の三つ巴の状況にあるのは周知の通りだ。この町にあるのはマクドナルドとサブウェイと最近出来たスターバックスぐらいだが、ヨドバシカメラとヤマダ電機の出店予定もある、これから伸びる郊外都市だ」
「他には私の通う大学ぐらいしかないけどね。それなりに便利でいいけど」
「コホン。けれどもここ最近、急激に治安が悪化しているのも確かだ。先日も暗い夜道でか弱き女性が変質者に襲われようとしていたところを取り押さえたわけだが」
「なんだか知り合いだったような気もしますけどね。うちの魔理沙の友人だったような、そうでもなかったような」
咲夜が頬に手を当てた。思った以上に良く働く秘書代わりの彼女は、公私で頼れるパートナーであるが、困ったことに他人を着せ替え人形にしたがるという悪癖があった。
魔理沙とは咲夜の店で働いているバイトの少女で、咲夜の趣味の生贄に捧げられている子羊である。虐めて涙目にさせるのが一番輝くらしい天性の被虐体質らしいが、それはそれ、基本的には巻き込んではいけない一般人である。こちらの正体へと辿り付くなどということはないだろうが、バイトであれば身内も同然。そして身内の友人もまた、身内も同然である。相変わらず本から目を離さないパチュリーと、いまだに首を傾げている咲夜はどうでもいいとして、これはいよいよ来るときが来たのかもしれないとレミリアは決意を新たにした。
そもそも七曜社とは、大学在学中に暇を持て余したレミリアが、友人のパチュリーと共に結成した、幻想町の平和を適度に守り適度に乱す秘密結社である。あるときは小学生の通学路にエロ本を仕掛け、またあるときは万引きに手を染める中学生を説得し、またあるときはゲーセンでカツアゲをしている高校生からカツアゲをし、奪われた子供たちへ返すなどの活動をしてきた。
この春大学を卒業したレミリアは、親の事業を引き継ぐための勉強をしながら、休日は意気揚々と噛んだガムを道路に設置していたが、そのうちにこの町には対抗勢力が根付いていることに気付くこととなった。
命蓮寺と名乗る連中と出会ったのは、仕掛けたエロ本を物陰から観察していたときであった。金髪の勘違いしたロッカーみたいな長身の女と、小柄で童顔な犯罪臭漂う少女が、エロ本を拾って持っていたゴミ袋の中へと放り込んでしまったのだ。
おおっ、ジーザス!なんてことだ!
性への扉を開く福音書を、道端に転がるゴミ屑の如く放り込んでしまうだなんて、腐れ外道どもめ恥を知れ!
単なるボランティア団体なのではないかという説もあるが、崇高なる使命を邪魔された七曜社にとっては憎き仇敵に認定されている。
しかしながら、命蓮寺よりもはるかに難敵がいた。それがこの町に巣食う闇魔界の組織、月光騎士団であった。小学校からずっとレミリアの同級生であった蓬莱山輝夜((彼氏いない暦年齢)、どこで七曜社の噂を聞きつけたのか自分たちも同じような組織を結成し、真っ向から対立してきた。女性向けの薄い本を通学路に仕掛け、過った扉を開放させようとする。道端で色付きの兎を売ろうとする。洋風カフェである喫茶「スカーレットデビル」と大正浪漫カフェ「七曜」に対抗して、和風を打ち出した喫茶「永久」などという二番煎じの出店をしてくる。それだけでなく、お洒落雑貨「三月兎」などというもので大学生の女の子のハートをがっちりキャッチなどと、ええい腹立たしい連中だ!
この町を裏から牛耳るのは大正から続く(という設定の)秘密結社、七曜社だとレミリアは鼻息を荒くした。パチュリーは別の意味で鼻息を荒くした。咲夜は夕飯について考えていた。しょうもねぇな。
「それで変質者を捕まえたりしてるわけでしょ? そろそろ月光騎士団もこの動きに気付くでしょうね。最近は財テクに熱心みたいだけど、基本的にはあそこも目立ちたがりだし」
「ふむん」
本を閉じたパチュリーは新聞を開いて自分たちの記事を眺めた。犯罪者を捕まえていようと、一応自分たちも犯罪者として書かれている。ふむ。
「命蓮寺は出てこないと思うけどね。あそこの母体って普通のお寺さんじゃない。目の仇にしなくたっていいと思うけど」
「一理ある」
参謀の言葉に耳を傾けるレミリア。まず当たるべきは月光騎士団であり、白蓮教徒は監視を付けておくだけで良いかもしれない。
「それには美鈴が適任でしょう」
「そう思うか。咲夜」
「仲良いみたいですよ」
「ジーザス!」
いつのまにか身内が毒牙にかかっていただなんて――やはりあの連中は恐ろしい敵であるとレミリアは認識した。
「しかしいま相対しなければいけない相手は月光騎士団の連中だ。物事には優先順位がある。開門するは健全なエロであり、薔薇の咲き乱れた禁断の果樹園などではない!」
「おゆはんの買い物行ってきていいですか?」
「私、眠いから今日は七曜社休みにするわ」
「ぐぬぬぬ……」
ジーザス!とレミリアは叫んで机を叩いた。いまいち仲間たちは本腰を入れてくれない。それどころか血の繋がっている妹は「え、お姉ちゃんキモッ」などとばっさり切り捨ててきた。ショックで三日寝込み、その間毎食食後のプリンを要求した。太った。
「とにかくだ!今夜もパトロールに出るからな!」
「あ、はい」
「おやすみー」
一人部屋に取り残されたレミリアは、めげずに地図と睨めっこを始めた。
しかしいくらなんでも近頃は、変質者が多すぎるような気がした。
「春って変質者が多いって言いますけど」
「うん」
「どの季節も大差ないですよね、実際」
「そんな気もする」
「アパートの前で座り込んでる女子高生とかも変質者の一種でしょうか」
「あ、はい。そうですね」
日曜日の午後だというのに、やることもなく部屋でぐったりしている。もう少し生活に若さがなければこのまま干からびていってしまうのではないだろうかという若干の焦りはあるものの、今日も永江は平常運行であった。
勉強の息抜きと称してやってきた地子も、部屋掃除をしてからはむさいおっさんを操作しては銃弾をばら撒いている。lol。しかも持ち主である永江よりも断然上手くなってる。lol。
「実際さー」
「はい」
「うちの学校でもプリント配られてたんだよね。変質者が多いから気をつけるようにって。一人で帰ったりしないようにとか」
「治安が急激に悪化するようなことでもあったんでしょうかね。不可思議不可思議」
「というかどっから湧いて来るんだろうね。他の町からわざわざくるのかな? この町にそんなに変質者が溜まってるなんて思いたくないし」
「交通の便が良いからですかね? 学校も近いから若い子もそれなりにいますし」
「あー」
「田舎や都会だとそういうのは流行らない気も」
「電車の中とかには居そうだけどね」
「満員電車だと誤魔化せますしね」
画面上では地雷に引っかかったおじさんが吹き飛んでいた。とてつもなく物騒だったが、永江はコンビニで買ってきたスルメを噛みちぎるのに夢中になっていた。
牧歌的な雰囲気だけが売りの町だというのに、このまま変質者が増えていって住人が入れ替われば変態の巣窟に変わってしまうのかなぁ、なんてどうでもいいことが永江の頭には浮かんでいだ。
「ねー」
「はい」
コントローラーを握った地子が間延びした声を出した。画面ではおっさんが火炎放射器でおっさんを焼こうとしていた。
「永江さんはそういうのに巻き込まれたことあるの?」
「ありますよ、えっへん」
しかし昨日まではなかった。
「変質者に会ったってのは胸張るところじゃなくない?っていうか、あるんだ。へえ」
「最後はちびっ子にボコられてました」
「え、なにそれこわい」
「サイドカーって憧れますよね」
「話を飛ばすな」
「いやサイドカーに乗ってたんですよね。その人たち。運転してた人はなんだか知った顔だったような、そうでもないような……」
「そんな知り合いいるわけないじゃん」
「そういうもんですかね?暗くなかったらわかったんですがねぇ。メイド服だったし」
「紛れもなく変質者じゃない、それ」
「ですよね」
ドレスにマントのちびっ子と、懐中時計を持ったミニスカメイド。秋葉原ならまだしも、昼間にここらへんはまともな神経では歩けない。日本中どこにでもあるようなこの町では明らかに異質な格好なのだ。
しかも、このご時世ほとんどみないサイドカーだなんて。昼間に見たら間違いなくツイッターに書いて詳細を求めるレベル。うっかりfavstarのTOPに載っててもおかしくない。
何かのコスプレか、珍妙奇天烈な趣味を持った暇人の道楽か。あるいはそのどちらもか。
いずれにせよ、偶然巻き込まれることはあっても、積極的に踏み込まなければ何も起きまい。けれど、一応いまPS3をしている少女は早めに帰らせようとは思う永江であった。
丁度一月前ほど前から、この町の治安が急激に悪くなった。不可思議な条例が隣県で通ったとか、外国人労働者が流入したなんてこともなく、偏りとして片付けるには異様だった。
特別変わったことがあったとすれば、その頃に若者グループが公園で花火をして、少しばかし小火を起こしたということが新聞の片隅に載っていたぐらいである。
何が祀られているのかも忘れられた小さな社は、小火のあとも誰に手入れされるわけでもなく、無残な姿を晒していた。このような風景は日本中のどこでも見られるものであるし、この町でも決して珍しいわけではなかった。
遊具の撤去された小さな公園に普段から通う者などいるわけもなく、ただ打ち捨てられていた。
「聖、ここですここです」
「あらあら」
「このままにしておくのはよくないと思いまして」
「そうですね。でも市に陳情してもしばらくかかりますしねえ」
「ビニールシートを被せて、お花を供えるぐらいなら」
「ええそうしましょう。教えてくれてありがとう。星」
「私、町が好きですからね」
星と呼ばれた金髪の女の子は、照れ隠しに鼻を擦り、それを見て聖は柔和に微笑んだ。 この町で唯一の寺、命蓮寺の娘である聖白蓮は、併設している孤児院で育てられた子供たちの長姉として、そして母として育った。もちろん、レミリアから敵対視されるようなことをしているわけもなく、積極的にボランティア活動などに参加している町の有名人であり、人気者だった。
ただし町への企業誘致にも積極的なため、地元の商店街の人々とは微妙な関係になってきているというがそれはそれ。
「住宅街で花火をするなんていうのも信じられないですが、神様のおわすところをこのようにめちゃくちゃにするだなんて」
「まったく、若者は昔と変わっていないな――!」
「聖だってまだ若いじゃないですか」
「大学生はいつの時代もこのようなことをしているものなのですよ」
「そういうものですかね?」
「星はまじめなだけですよ。金髪だけど。頭を撫でてあげましょう」
「わぁい」
これを境にして治安はV字回復を果たし、結局のところは数字の偏りとして処理されることとなったのだが、そんなことを微塵も知らない者たちを苛立たせるには十分過ぎた。
「一匹見たら三十匹ってぐらいに怪しい連中が居たのに居なくなってるじゃない!」
「いいことなんじゃないんですか?」
「暇つぶしにならないでしょうが!」
「あ、暇つぶしなんですね。暇つぶしって明言していいんですね。なんかすごい理念とかなかったんですか? 七曜社って結局何するところか全然知らないんですけど」
「あーあーあーあーあー。咲夜五月蝿い。すげー五月蝿い。具体的にはモスキート音ぐらい五月蝿い」
「私まだ聞こえるんですけど、聞こえます? 23歳ですよね」
「バッチリ」
「逆に引きますねそれ」
てろてろと走るサイドカーinマント&メイド。昨日までは生暖かい気持ち悪さがあったのに、嘘のようにそんな空気がなくなっていた。単に今日は涼しいだけかもしれないが。
しかし、本当に今日は静かだった。静か過ぎて耳鳴りがしそうなぐらい。耳を澄ましても、エンジン音と運転している咲夜の呼吸音ぐらいしか聞こえてこなかった。
女の子の甲高い悲鳴が聞こえたら――聞こえないほうが平和で良いことなんだけど、こう、張り切って飛び出してきた手前収まりがつかない。
「帰ってテレビ見ましょうよ」
「もうちょいだけ」
「美鈴も何もないって言ってましたよ。両手一杯にお土産持って帰ってきましたけど」
「賄賂よ賄賂」
「月光騎士団(笑)も出てきませんし」
「いま、発音できない部分を発音しなかった?」
「気のせいですよ」
「そ、そう」
このメイド、時々人外のスペックを発揮するから侮れない。真顔で変なことばっかり言うし、いつかクビにしよう、そうしよう。
そんな決意をレミリアは固めつつ、流れる風景を眺めていると、公園の前に嫌でも目立つ10メートルサイズのリムジンが止まっていた。
「ちょっと咲夜ストップ。あいつらが居た」
「がってん承知の助」
「そういうのどこで覚えてくるの?」
「大切なことは全部、グーグルが教えてくれた」
「あんた友達失くすタイプだわぜったい」
「lol」
路肩にサイドカーを寄せて、二人は相手に気付かれないよう公園を覗き込んだ。
案の定、月光騎士団――蓬莱山輝夜とその舎弟が二匹。お目付け役が居ないところを見ると、勝手に抜け出してきたと見える。
「咲夜、なんて話してるかわかる?」
「読唇術でなんとかします」
「できんの」
「ワレワレハウチュウジンダ、だそうです」
「もうお前に頼らねぇ」
「『せっかく甲冑を引っ張り出してきたのに無駄だったわね』『そもそも要らなかったんですよこれ。大体こんなの着たら動けませんって』『気合でなんとかするもんだってあんたの師匠が言ってたよ』『根性論反対ですって!っていうか着せようとしないでくださいよ!』ですって」
「えっと」
「大切なことは全部、グーグルが教えてくれました」
「なんかもうあんたに突っ込むことが無駄に感じてきた」
「光栄です」
「褒めてないけど、どうする? なんかいま甲冑着せてるみたいだけど」
「歴女……ですかね」
「倉から引っ張り出してきたあれを着せてとっ捕まえようと思ったんでしょうね。謎の鎧武者が変質者を捕まえる!目立ちたがりのあいつが考えそうなことだわ」
「こっちの格好も大概ですけどね。帝都がそのまま崩壊してもおかしくない格好ですよ」
「ねぇ、あんた何歳だっけ」
「17歳です」
「何を蘇らせようとしたんだっけ?」
「平将門。京都では首塚に祈るとなんでも願いが叶うっていう噂もあるんですよ」
「あんたと話すと疲れてくるからもういい。とりあえず着せ終わったみたいだけど」
「どうも闇のオーラを感じますわ……。曰くつきの逸品なのかも」
「はいはい。っていうかあんなの、重くて一歩も動けないわよ」
「ドーピングコンソメスープを静脈注射することによってですね……」
「はい」
「あ、はい」
二人がくだらない会話をしているうちに、甲冑武者が一体出来上がっていた。三日月の兜が超クール。しかし平均的な一般成年女子ではどう好意的に見ても歩くのが精一杯といったところ。仮に暴漢が出たとしても、あの鈍い動きでは取り押さえるどころではない。
「咲夜」
「はい」
「前から思ってたけどあいつらって」
「馬鹿ですよ。私たちと大差ない程度に」
「後半はいらない」
「妹様に呆れられますよ」
「もう五年もしたらあいつにもわかるようになるって」
「それ、五年前にも言ってましたよ」
「そのときまだ知り合ってなかったろ。あんまり適当なことを言うな」
「はい」
「で、どうする? たいしたことはできないだろうし」
「様子が変です」
「ん?」
「一波乱、あるかもしれないですよ?」
咲夜が指差す方向にレミリアが目をやると、甲冑武者が重量を感じさせない機敏な動きで歩いていた。残る二人は面白がって見ているようだったが、何かしらおかしなことが起きているのは間違いなさそうだった。
「咲夜、どう見る?」
「あの甲冑が凄く軽いレプリカだった、というのが考えられる中で一番ありそうであり、もっともつまらないオチです」
「だろうね。でも着せるときに難儀してたろ」
「お嬢様育ちの蓬莱山でも、レプリカであればもう少し楽そうにしていたでしょうね」
「ってことは何かしらおかしなことが?」
「でしょうね」
「ふむん」
レミリアは頬に手を当てた。
ほとんどが眉唾物であるが、本物もこの世界には紛れ込んでいる――それこそ神が人へと授けたとしか思えない超常の力を持った宝物であったり、人の怨念が作り出した業物であったり。
そういうものは然るべき場所で管理されているため滅多に出てくることはないのだが、骨董品に紛れて世に流れ出すこともある。
20歳の誕生日、レミリアは母からそのような話を聞かされた。一体何の世迷言を話すのだろうと当初は疑ってかかっていたものの、聞いていくうちに本当にあるものなのだと認識を改めた。
レミリアの曽祖父がロシアへと旅行していたとき、露天商から小さなイコンを買ったのだという。くすんだ色のそれがどうしても欲しくなり、法外な値段を支払い購入すると、人生は一変した。
単なる労働者だった彼は貴族であった曾祖母と運命的な恋に落ち、すっかり没落していた家を再興することにも成功した。しかしイコンは福とともに呪いももたらした。
「子供のまま成長が止まってしまうこと、日光に弱い体質、そして、異常な筋力。そこまで困ったことはないんだけどねぇ」
結局曽祖父母は祖母を連れて祖国を捨て、日本へと逃げるように定住することとなった。第二次世界大戦後の混乱に乗じて、商売も手広くやった。
このように事実だけ列記すれば大層なことに見えるが、なんのことはない。運命的な結婚をした男女が紆余曲折を経て幸せな老後を過ごしたというだけのことだ。実に納豆が好きな人だったと聞いている。
うちにもあるのだから、自称千年以上続くという元華族の家にもそのような物がごろごろ転がって居たとしても何もおかしくないというのがレミリアの見解であり、その推測は当たっていた。
初めは手を叩いて喜んでいた二人も、呼びかけに応じないことに不安を覚え始めていた。
現在時刻、午前2時。
「怪異?」
訝しげに聞く星に、白蓮は頷いて答える。
「あの御社はこの町を守っていた結界の一つなのです。もちろん私もそれほど詳しくはないのですが……。ここ一月、急に町の空気がおかしくなったでしょう」
「それは確かに。でも、そこを直すだけで解決してしまうんです?」
割れ窓理論という有名な理論があることを星は思い出していた。そしてその理論は名前だけが歩いていて、実証はされていないということも。社が壊れていたからといってそのまま治安が悪くなったと繋げてしまうのは短絡的で、非論理的に思えたが、そういうことではないらしい。
「建物を作るときにも鬼門の位置などは考えるのですが、それは作る物がどんなに大きくなっても、例えば、町を作るときにも一緒なのです」
「というと?」
「この町の都市計画には霊的な要素も取り込まれている。といっても浸透しきっていないから今回のようなことになったんですが」
「新しい市長さんです?」
最近市長になった八雲紫からはそのような噂がよく流れてくる。元は政治家を相手にした占い師だったとか、対抗馬をそういう摩訶不思議な力で蹴落としたとか。そのすべてが眉唾物だったし、会って話してみても理知的な人だな、ということぐらいしか星は思わなかった。
「察しがいいですね。その通り、あの人が主導で進めている計画です」
「つまり、あれさえ直ればもう大丈夫なんでしょう?」
「ええたぶん。あそこの近くに変なものを持っていくとか、それも丑三つ時に近づくとかしなければ何も起こらないでしょう。本当に、大事になる前に気付いて良かった」
胸を撫で下ろす白蓮。
そういう事情があるのならば、きっと市もすぐに対応せざるをえないだろうし万事解決。
星にとってはぴんとこない部分も多々あったが、あえて反論する部分でもない。
心情的にも、社が打ち捨てられたままというのは気分も良くないし。
「いやぁでも、世の中不思議なこともあるんですねぇ。そんなの、物語の中だけだと思ってました」
「星? この世には、不思議なことなど何もないのですよ。敏感な人とはそういった化生を引き寄せてしまう。または引きずられていくものなのですよ。私たちは非行に走る少年少女を見過ごすことはできません」
「多感な時期の子供たちに影響があるんですか」
「そうですそうです。さ、お話はこれぐらいにして寝ましょう。明日も、やることはたくさんあるのですから」
何かしらを誤魔化されたような気はしたが、それを星はあえて問おうとは思わなかった。とっくに横になっている家族たちとの間に潜りこんで寝て、起きたら大学に顔を出して。日常から踏み外した部分に自分から突っ込むのはよっぽどの酔狂者だ。
この小さな幻想町にも怪異にまつわる伝説はある。
夜中に現れるちんどん屋――通称『幽霊楽団』の噂や、猫ばかりが住むという『猫屋敷』の伝説、
そしてこの夜、幻想町に新たな伝説が生まれた。時速60キロで走る鎧武者の伝説だ。時速60キロという数字は公園前を流していたタクシーを悠々と抜き去った甲冑の速度からレミリアが適当に計算した数字だったが、もっと速かったかもしれない。
「咲夜!」
「がってん承知の助!」
雇われ店長はセルを回しエンジンに火を入れる。レミリアが側車に乗り込むと同時にアクセルをパーシャル、クラッチオン、フルスロットル。
幼女緊急発進〈バッドレディスクランブル〉。
見れば、月光騎士団の連中も慌ててリムジンに乗り込み、猛スピードで駆け出した甲冑を追いかけようとしている。
一台のバイクと一台の車が深夜の住宅街でスキール音を響かせながら併走する。
「何よ貴方達。相変わらず恥ずかしい格好で正義レンジャーごっこ?」
横に並んだリムジンの窓から蓬莱山輝夜その人が顔を覗かせると優雅に匂い立つような煽りをよこす。レミリアは可憐な笑顔を共に中指を突き立てて返礼。
「どうやら困ってるみたいだから助けてあげようかしら、なんて思ってね」
「余計なお世話よこの歩く児童ポルノ」
「輝夜さまー!鈴仙は山に向かってるみたいですね」
運転席に座った因幡てゐがカーナビで経路を確認。低身長でアクセルに届かない足を高下駄で延長した危なっかしい運転は、しかし的確なハンドル捌きで10メートルある車体を狭い路地でも難なくと操っている。
「あの鎧ただの骨董品って訳じゃないんでしょう?一体どんないわくがあるのよ」
「別に。ただ中世の頃、どっかの武士の持ち物だったんだけど、ある日何を思ったのかそいつ、あの鎧を着込んで小さな村に一人で襲って皆殺しにしたとかそういう噂が」
「ジーザス!」
「最後は派遣された武士団に包囲されてあえなく討ち死に。その時に指揮を執ってたのが地元で力を持っていたこの地の神社の神主様。狂った武士は死に際に、この恨みはらさでおくべきかー!ってそれはそれは呪いながら果てたそうで」
「そういえば、山の上に神社がありましたよね。名前は忘れましたが、昔からあるこの土地の中心地だとか」
「それか」
「それだわ」
レミリアと輝夜の二大巨悪が一斉に呻き、同時に手を伸ばして握手。一瞬にして一時休戦が結ばれた。
「あの鎧は壊しても構わないわ。どうせ蔵にごろごろ落ちてる骨董品の一つだし」
「中に入ってる人間は?」
「無傷で返して貰えたら嬉しいわね」
「善処してみるわ。ただ結構強そうだから手加減できないけど」
レミリアが首と肩をゴリゴリと鳴らす。その目は好奇に爛々と輝き、さながら特大の誕生日ケーキを目の前にした子供の様。
「この先で下り坂になってます。そこで追い付きます」
「オーケー、咲夜。鎧怪人をやっつけて町に平和をもたらしてやるわよ。そして何事もない朝が来る。なんて素晴らしいんだろうね。車がブンシャカ走って子供がPSPを学校に持ってくっていう」
「今夜のことは?」
「無かったことにする。当たり前」
「了解です。ちょっとばかし騒音が凄いことになりますが、まぁ今夜ぐらいは許してもらいましょう」
アントニオの顎が割れてしまった。
欧米人はわざわざ顎を割る整形手術をするぐらいにこれが好きだが、どちらかといえば永江は顎は割れていないほうが好きだった。
「ああアントニオ!どうしてあなたの顎は割れてしまったの!」
「oh...マンダム」
「つづりぐらい調べろよ!……っ。夢か、はぁ」
架空の愛人アントニオの顎は無残にも割れてしまったが、また夢に見るときには治っていることだろう。夢とはそういうものだ。
それよりも外から響く雷鳴の如き騒音のほうが問題だった。
頭に蚊サイズの脳しか入っていない連中でも、もう少し慎ましいエンジン音を鳴らす。
ていうかこのガシャンガシャンと鳴っている鉄が高速でコンクリにでも叩きつけられているような怪音も安眠妨害甚だしい。
これではアントニオの顎が破壊されたのも当然だ。
幸い音は段々離れていったが、永江はぷりぷり憤慨しながら布団に潜り、枕元にあった食べかけのチョコレートを齧りながら死んだダニーのことを思い出し、少しだけ泣いた。
住宅街を抜け、道は郊外へ。山の麓へと続く曲がりくねった旧道。下り坂に入ったところで先行するリムジンをバイクが追い抜く!ゴァァァァァァ!ゴァァァァァァ!エンジンが咆哮しタイヤがアスファルトと擦過し白煙を生む。前方には人外めいた速度で失踪するブシドー・アーマー!そして右急カーブ!
「スピードを落とすな!」
側車の中で腕を組んだレミリアが叫ぶ。がってん承知とばかりに雇われ店長は小振りなお尻をシートから浮かせて体重移動。右にリーンする車体/浮く側車。それをレミリアも体重移動でカバー!ハイサイド寸前の車体を二人のチームワークで押さえつける!
タツジン!カーブ出口でブシドー・アーマーに追い付く!ゴァァァァァァ!全開で唸るエンジン!
「ぶつけろ!」
「御意!」
カミカゼめいた攻撃が鎧武者を襲う。
「アイエエエエエ!」
叫びは中の哀れな鈴仙女史のものか。ゴウランガ!吹っ飛ばされたブシドー・アーマーがアスファルトに叩きつけられる。さらにそれを後方から追ってきていたリムジンが跳ねる!
「グワーッ!!」
だが決死の体当たりをしたバイクもただでは済まない。フロントフォークが捻じ曲がり制御不能に陥りガードレールに激突!そこへさらにリムジンが激突!二台の車両はガードレールを突き破り初代トランスフォーマーのオープニングにおけるコンボイのようにゴロゴロと下の崖へと転落する。
「よくも、よくも皆を――!」
激突の瞬間に一人だけ脱出したレミリアは燃えながら崖を転がり落ちる仲間達を見つめ怒りに声を震わせる。
ビジネスパートナー以上の信頼を育んできた咲夜。長い対立を乗り越えようやく理解し合えた輝夜。彼女の付き添いの――えーっと、名前はなんだっけ?
「とにかく、許さん!」
レミリアの怒りに呼応するように赤々と燃える炎に照らされたブシドー・アーマーが立ち上がる。その姿は無傷!
レミリアは呼吸を整えカラテの構えを取る。
「レ、レミリア=サン」
その時、ブシドー・アーマーが喋った!
「私には全てが分かりました。この鎧の持ち主の無念――彼は騙されたのです。同じ武士団のライバルによって村を襲った狂人に仕立てられましたが、全ては彼を疎ましく思う者による卑劣なトラップ!彼は故郷に奥さんと生まれたばかりの女の子がいて――」
「イヤッー!」
「アバァーッ!?」
隙を付いたセイケンフィストが直撃する!だが実際の戦場を駆けてきたサムライダマシイは依然として無傷!
「イヤッー!」
しかしその程度で臆するレミリアではなかった。ブラスナックルを素早くはめると遠慮なく拳を叩きこんだ!
「イヤッー!イヤッー!イヤッー!」
胸胴、肩当て、メンポ。体重を乗せた重い一撃が鎧を抉る!
「アイエエエエエ!」
国宝めいたブシドー・アーマーが傷付く。何より中の鈴仙が衝撃でノックダウン寸前!
「話を!」
「フェエエエエエイ!」
レミリアの渾身の突きがブシドー・アーマーにヒビを入れた!衝撃に膝をつくブシドー・アーマーと意識が飛んだ鈴仙!しかしブシドー・アーマーは鈴仙の口を借りてトークを試みる!
「ただ妻と娘が葬られた墓に手を合わせたいだけなんです」
「なんだと」
「もう時間がないのです、どうか武士の情けを――」
ジャパンに伝わる至高の懇願法、ドゲザ!さすがのレミリアもマカロニウェスタンのダークカウボーイのようにはなれなかった。
「とにかくその中身を解放してもらおうか」
「今しばらくはどうかご勘弁を!彼女には納得をしてもらったのです」
「ふむ……」
ドゲザを続けるブシドー・アーマー。もうレミリアとブシドー・アーマーはコブシを交わした仲である。それにブシドーはギリを何より大切にする。
「ケジメをつけよう」
指切りを提案するレミリアと、それに応じるブシドー・アーマー。美しき友情が育まれようとした瞬間。
ゴァァァァァァ!ゴァァァァァァ!という凄まじい爆音とともにサイドカーが崖を駆け上り、ブシドー・アーマーを跳ね飛ばした。
頭から血をだらだらと流しながら咲夜は、トドメと言わんばかりにもう一度、そしてもう一度、ついでにもう一度、最後におまけでもう一度。
念入りにブシドー・アーマーを破壊した。
あとには、静寂だけが残った。
JOJOは第四部が好き。
そんな風に通ぶってるからモテないんだと地子に言われたので頭を叩いたのを思い出した永江は、ダニーが死んだシーンを読み直そうとして寝不足になった。
針金を口に巻かれて焼かれたかわいそうなダニー。こんな惨い殺し方をするだなんて許すまじ。
結局座ったままジャンプをするおっさんが出たあたりで本を閉じた。真似したくなったけども、腰が重大なエラーを起こしそうなのでやめた。ファッキン。
布団から這い出て顔を洗って、髪の毛梳かして化粧して、スーツ着てのいつも通りの朝。何の変哲も無い今日が始まろうとしている。
祝福するかのような半端な曇り空にまとわりつく湿気。
爽やかさの欠片もないありふれた日に永江は辟易としつつ、階段を降りた。
竹箒で掃き掃除をしている大家に「なんだか五月蝿かったですね」と言うと「そうだった? 変な夢でも見てたんじゃないの?」と返された。
確かにアントニオなどという架空の彼氏の顎が割れる夢を見たなと永江は一人得心した。
「それじゃあ行ってきますね」
「行ってらっしゃい永江さん」
途中コンビニで新聞と朝ごはんを調達していると、朝から暇そうな奥さんの会話が耳に入った。曰く。「鎧武者が爆走してリムジンが爆発してメイドが人身事故を起こしてマントを羽織った怪人が高笑いをして飛んでいった」そうな。
そんなエキセントリックなことが現実に起きていたとしたら、きっとブラジャーで首を括ろうなんて思わないに違いないと、永江はレッカー車に積まれたリムジンを見送った。
よく考えたら、それをしでかしそうな人々がこの町に住んでいることに軽い頭痛を覚えた永江であった。
再公開